shojiの伝統産業を巡る旅

名古屋の学生、shojiが各地の伝統産業を徘徊してます。

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南部鉄器「田中鉉工房」①

DSC_39201.jpg
鉄瓶の取っ手は「鉉(つる)」と呼びます。

南部鉄器=鋳物と考えがちですが、「鉉」は鍛造でつくられます。
当然、用いる技術が異なるため、鉄瓶は本体をつくる釜師と、鉉をつくる鉉職人によって作り出されます。

鉉を専門でつくる職人は全国でも数名と希少な存在。
ここ盛岡では鉉を製造するのは「田中鉉工房」のみです。

DSC_4143.jpg
こちらが鉉職人、田中二三男さん。
この方がいなかったら南部鉄器は成立しないという超重要人物です。

そんな田中二三男さんにお話を伺ってきました。

ーこの仕事を始めてどれくらい経ちますか?

23年くらいかな?先代が亡くなって田中鉉工房になったのは7年くらいだな。
(柴田鉉工房→田中鉉工房)

ーこの仕事を始めたきっかけは?

前は国鉄にいた。国鉄が分割便化になったときに、配置転換でちょっと遠いところになったのよ。それで辞めたの。
国鉄にいたころは車両修繕をしていて、鉉工房をみたら同じような道具を使っていたから。
もともとものづくりが好きだからねー。でも国鉄にいた頃は鍛冶屋はやってなかったけどなぁ。
ただ入ったら入ったで、給料が安くて愕然とした。


ー田中さんは後継者育成事業※を活用されたとお聞きました。事業の有無はこの業界に入るきっかけになりましたか?。
(※南部鉄器の後継者育成事業:人材育成を目的とし、後継者の賃金2年間補助、技術指導などを組合が主導して行った事業。労働白書にも記載された。)

いや、事業がなくてもオレは入った。事業があることは入って後から聞いたもの。

ー鉉工房は盛岡にはここだけなんですか?

盛岡ではここだけ。水沢にも一人いるよ。ただ後継者がいないって聞いたな。

ーここだけということは注文はコンスタントに来るのですか?

まぁコンスタントにあるね。鉄瓶屋が暇なときはオレも暇だけども。

ー袋鉉※以外の全ての鉉をここでつくるのですか?
(※袋鉉:一枚の鉄板を曲げて作る中空の鉉)

うん、袋もムク(中空でない鉉)もいろいろやるよ。鉉は全部だからね。

コンポ 1 (0;01;22;08) のコピー
工房に転がる鉉たち。これはスカシとよばれる、平たい鉉に穴があけられたもの。


ー昔から鉉工房は産地に一軒だったのですか?

ん~、オレは昔のことはよくわかんねぇな。
釜屋の系図は残ってるけども、鉉屋のは残ってないんだよ。
昔っから釜屋だけが目立って、鉉屋は奴隷みたいなもんだから。

(盛岡の鋳物は、始まりが慶長年間(1596年-1615年)の盛岡藩主南部氏が築城の頃といわれている。それからは、歴代藩主庇護の下、育まれてきた。藩の鋳物の受注はこの4家がほぼ担っていたため、盛岡の南部鉄器の歴史は、有坂家、鈴木家、藤田家、釜師小泉家の歴史とも言える。wikipediaより引用)

ただ先代の親方が始めた頃は3軒くらいあったってよ。終戦後くらいの時だね。
定かではないけども、その頃は職人も10人くらいいたようだよ。ただ終戦直後は仕事がなかったようだけど。

ー田中さんがこの仕事始められて、仕事の内容に変動はありますか?

あんまりないんじゃないかな。ただ鉄瓶屋さんは確実に減ってきてるからね。


ーここでは鉉以外にどんなものをつくっていますか?

灰ならしとか火箸とか、湯釜の注文があったときは環(かん・持ち手となる輪っか)をつくったりね。基本的に注文が来たらつくる。最近はそういう注文は少ないけどなぁ。
よっぽど暇なときは、いろんなもの作ってみるよ。


に続きます。
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[ 2010/11/03 03:30 ] 南部鉄器 | TB(0) | CM(0)
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プロフィール

shoji

Author:shoji
名古屋の学生です。
今年度は日本の伝統産業を巡る旅に出てます。
旅先で見たこと体験したことを日々綴っていきます。

※すでに旅は終了しています。

mail:cus-show at hotmail.co.jp



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