shojiの伝統産業を巡る旅

名古屋の学生、shojiが各地の伝統産業を徘徊してます。

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紅型の道具たちと歴史

DSC_5029.jpg

これはなんでしょう?

豆腐です。

実はこれもれっきとした紅型の道具です。

DSC_5030.jpg

木綿豆腐を2ヶ月ほど乾燥させることで

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こんなにかっちかちになります。

何に使うかというと、型紙を突き彫りする際の下敷き。「ルクジュー」といいます。
カッターマットなどで代用する人もいるそうですが、ルクジューの感覚に慣れている人は今も愛用しています。

ちなみに食べると「とてもまずい」そうです。
他にも、筆の毛には女性の髪をつかったり、
紅型の道具はこうした身の回りのものを活用したものが多いのです。
それには紅型の歴史を語る上で欠かせない「戦争」が大きく関わっています。

ざっと紅型の歴史について。
紅型の始まりは、15世紀中頃にまでさかのぼります。琉球王朝の庇護の下、首里を中心に発展。中国、日本、東南アジア諸国への貴重な交易品となっていました。
王朝は専属の職人を抱え、紅型三大宗家、沢岻(たくし)家を筆頭とした、知念(ちねん)家、城間(しろま)家らによって技術の粋を極めていきました。(紅型三大宗家と言われるようになったのは戦後からとも言われているが)

しかし、廃藩置県後は王朝の庇護を失い、生産の中心は首里から那覇へ。紅型は衰退の一途を辿ります。
そして更なる災難が「第二次世界大戦」。沖縄は戦火に包まれ、とくに王朝時代の中心を担ってきた首里は9割がたを焼失し、貴重な文化財、資料、紅型、道具、職人、そのほとんどを失ってしまいました。

人もいない、道具もない、そもそも食べる物もままならない。
大戦によって紅型は壊滅的な打撃を受け、いよいよ途絶えていこうとする中、城間家、知念家による努力によって復興に向け歩みます。

この時の様子として、城間家14代目、故・城間栄喜氏のエピソードは有名です。

紅型製作には絶望的な物資不足、道具は焼け、自分が生きていくにも精一杯でも、城間栄喜氏は諦めませんでした。
「時代は変わったが、日本人が着物を捨てない限り、紅型の衣装は、なくなるはずがない。わたしは、この沖縄の風土を生かして、沖縄独特の美しい模様を染めることに一生をかけよう。」

まずは道具の調達。型彫り用の小刀は、ゴミ箱から鉄くずをあさり時計のゼンマイの破片を利用し、型紙は軍用地図やハトロン紙、糊引きの筒袋の口金は薬莢で代用。ルクジューの代わりに厚手のゴム板、型置き用のヘラはレコード盤の破片。
顔料には、赤レンガをすりつぶしたものや、貝殻を砕いて作ったものを利用したり、身の回りの植物で染めたり。
戦後、米軍統治化のもとで米兵向けにネクタイやポストカードをつくり復興に尽力しました。

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写真は今実際に使われている小刀と筒袋。これらをゼンマイの破片、薬莢などで代用していた。

こうした故人の尽力によって今の紅型があります。それは「奇跡の復興」と言うにふさわしいものです。
道具ひとつとっても、紅型の歴史を感じることができます。

そして「伝統を絶やしてはいけない」という言葉がこれほど人間的な意味合いを持つものかと。

沖縄の工芸品には戦争を乗り越えてきた先輩たちの思いが込められています。僕らでは想像もできない、厳しい環境の中で、それでも伝統を繋いでくれた。そして今の沖縄がある。

のどかな海と空っぽな三線の音がこれほど染みるものとは思ってもみませんでした。

紅型の今については次回
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[ 2011/03/03 14:21 ] 紅型 | TB(0) | CM(0)
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プロフィール

shoji

Author:shoji
名古屋の学生です。
今年度は日本の伝統産業を巡る旅に出てます。
旅先で見たこと体験したことを日々綴っていきます。

※すでに旅は終了しています。

mail:cus-show at hotmail.co.jp



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