shojiの伝統産業を巡る旅

名古屋の学生、shojiが各地の伝統産業を徘徊してます。

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竹富島の織物、内盛スミさんを訪ねて

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八重山ミンサーという名でこうした「いつよ(五つ四)」の絣が入れられた帯をよく目にします。

八重山ミンサーというのは八重山地方のミンサーの総称で、本来は各島々にそれぞれのミンサーが伝わっています。
中でも、八重山ミンサーとして定番となっている「いつよ」、「ヤッサミ」が織り込まれたミンサーは竹富ミンサーがルーツと言われています。

竹富島ではかつて生活の中に機織りが根付いており、集落には機の音がいたるところで聞かれました。しかし戦争がやってくると、生き延びるために、地機(じばた・地面に座って織るタイプの昔の織り機)から一本一本薪にくべながら生活していたそうです。だれも再び機織りができるとは思っておらず、こうして島の地機の大半は無くなってしまいました。

昭和30年代末になるとミンサーを織る技術を持っているのは島に亀井カンツさん一人となってしまいました。後継者が憂慮されてされていたころ「これをなくしてはならない。」と復興のに向け再び歩みだします。

琉球政府の補助を得て、昭和37年に第一回のミンサー講習会が開かれます。多くの織り手が養成され、竹富のミンサーは復興を果たします。そして那覇や石垣に商品を卸すようになり、産業としての竹富ミンサー、織物が始まりました。

しかしその後、どの織物業界も直面する、海外製品の流入や安い大量生産の製品との競合の中で、仕事のわりに換金性の悪い手織物は徐々に従事者を減らし、今では竹富島で織物に従事する人は数名となってしまいました。

くしくも事情や環境は違えど、現在の竹富のミンサー、織物は昭和30年代の状態に戻ってしまいました。

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八重山ミンサーのルーツがある竹富島。現在置かれている状況は大変厳しいものとなっているようです。
竹富島に到着し、まず島の貴重な織り手、内盛スミさんのもとを訪ねました。
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内盛スミさんは先述した昭和37年のミンサー講習会の第一期生。当時の受講生の中でも最若手も今は84歳になられます。受講生だったころは2人の子供をかかえ、周りの助けもあって一生懸命になって機織りをしてきました。

長く竹富町織物事業協同組合の理事長を務められ、今は隠居の身。孫や息子たち身内のために祭事に着る伝統衣装を織っています。

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これはその伝統衣装のひとつ。身内の分を作るだけでも大変時間のかかる仕事。バリバリと若い頃から働いてきた内盛さんは今も機に向かい、年齢を感じさせない仕事ぶりです。

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かつては島で見られたこうした光景も、今はほとんど見られなくなりました。
知識として写真で残っても、実践の中で伝わる感覚や知恵は伝えていくことは出来ません。「やれる人が少なくなってきた。」
と内盛さんも寂しそうに見えました。

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ここで一枚の布を見せて下さいました。
まだらに絣?が入っているような不思議な布。

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これは戦後、木綿の糸がなかなか手に入らなかったときに漁網をほどいてつくった糸で織ったものなのだそうです。木綿の糸が欲しくてたまらなかったとき、漁網が木綿であることに気付き、3人がかりで網を解いて一本の糸にしたそうです。「木綿が手に入って、それはもうとても嬉しかった。宝物だよ。」

この布に込められたエピソード、織れる喜びが詰まった貴重な布です。

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内盛さん宅の押し入れから次々に出てくる布たち。

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若い頃からバリバリ働いてきた内盛さんはいろんなことにチャレンジしてきました。
例えば、正方形が基本の「いつよ」の絣を、糸数を減らして長方形の華奢な「いつよ」にしてみたり。

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タペストリー、ストール、他にもテーブルセンター、ヘアバンド・・・島の織物が産業化したころには率先して新しい物に挑戦し、地元のお土産品を競う大会でも何度も受賞してきました。

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「織のことだったら出来ないことは何も無い。何をすればいいかわかってるからね。」


紡がれた芭蕉の糸、紺と白の絣糸。
0から10まで物が出来ていく過程を知り、長く島の織物組合の理事長も長く務めた内盛さんが果たしてきた役割はとても大きなものです。

ミンサーの後継者が危ぶまれていた頃、ただ一人の技術者となった亀井カンツさんの奮闘、そしてミンサー講習会の第一期生の内盛スミさんが再びミンサーを引っ張っていく、そんな伝承のリレーを垣間見ることが出来ました。

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そんな内盛さんも今は一線を退き、稼業の民宿業の傍ら自分の子供たちのために、島の祭事で着る衣装を織り続けています。

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「今織ってるのと、もうあと2着つくらないといけない」と用意した糸。
内盛さんは丹誠込めて家族のために布を織っています。手織りはとても時間の掛かる作業で、2着をつくるのはなかなか骨の折れる作業量です。

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「たん、たんたん」
と内盛さんの家の前を通ると、いつも機の音が聞こえます。

かつては島中で聞かれた機の音。今、音が聞こえてくるのは内盛さんの家と、竹富民芸館からのみ。そして内盛さんも高齢となり一線を退き、いよいよ産業としての竹富の織物は空前の灯火となってしまいました。

織物で生計を立てることは難しく、新しい人が始めることは容易なことではない。さらに竹富という小さな島で、地元の若者も少なく、新しく人が移住することには特別な意味を持ちます。どの手織物の産地も苦戦している中、他の産地にはない逆境を抱える竹富の織物。まさに今、瀬戸際の状態で必至に絶やさぬように頑張っておられるところです。

内盛さんは一線を退いたものの、まだまだ健在です。生き証人が元気なうちにどうか地域ぐるみの早急な対処を切望して止みません。
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[ 2011/05/04 15:01 ] 竹富島 | TB(0) | CM(0)
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プロフィール

shoji

Author:shoji
名古屋の学生です。
今年度は日本の伝統産業を巡る旅に出てます。
旅先で見たこと体験したことを日々綴っていきます。

※すでに旅は終了しています。

mail:cus-show at hotmail.co.jp



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